ミス慶応コンテストがなくなったことで「大学生」を考え直してみた

2016年のミス慶応はいない。ファイナリスト6人が出たにも関わらずグランプリは決められなくなってしまった。

これまでも問題があったのは事実らしいが・・・・

駅前を全裸で走りまわったのもわりと最近の事だったように記憶している。

正直なところ、ミス慶応コンテストを学生のサークルだけでやっていたことに驚いた。

やはり、慶応大学ともなるとそれだけ優秀な学生が多かったのだろう。

 

学生だけでこれだけの大きな対外イベントをやり遂げるのは難しい。

学生は4年周期で入れ替わるため、サークルの伝統やノウハウを維持するのは難しい。現状を考えれば、大学が指導する体制を備えないと、学生の幅広い活動(大学にとってもおいしい)はできなくなる。しかも、今回のようにいざ問題を起こせば大学の名前に傷がつく。学生にとって大学は、人生の中でたった4年の出来事で、大学生という肩書上、社会的責任は軽い。しかし大学側は、たった4年間しかその学生の事を知らないのに、彼らに責任を持たなければならない。なんと不合理な関係性だろう。だが、それが教育なのだろう。

かつては「大学生は大人であり、自分の行動に責任を持てる」という前提で大学教育が成立していた。また、当時は不祥事に対してもそんなに厳しくなかったと思う。ここ数年、コンプライアンスの観点から、不祥事に対して世間の目が厳しくなった。

学生の質と言う観点では、天下のT大生と言えども、変わった学生はいる。受験形式はセンター試験を中心に、学生の知性や創造性、人格的な成熟よりも機械的な処理能力と回答の平凡さを問うているので、変わった学生も有名大学に入学できてしまう。

だから、入学してきた学生を野放しにしておくと非常に危険だ。自由を与えると見境がなくなる。無責任と自由の区別がつかず、自分のやりたい事ばかり主張して、話にならない者も増えている。

 

今の評価方法のままでそれに見合った大学生像を受け入れるか、大学生のあるべき姿に評価方法を合わせていくかをはっきりさせないと、こうした問題はこれからも続くだろう。