学生と一体となった大学改革って大学の実績のために学生を利用しているに過ぎない

今日は学生FDの会議があって学生支援を指導する体制を大学に、と提案してきた。

うちの大学では大学が学生を支援していると主張するばかりで、支援する体制なんて名ばかりである。今は心ある事務の方が熱心に見てくださっているが、来年から彼女はいなくなる。彼女はパートで来ていて、再雇用を優先させないといけないので、来年度からは全然別の人が来るらしい。

 

今は課外活動を評価する時代になったといっても、大学は評価されるためにやっていて、中にいる学生は振り回されている。

そもそも学生支援は、学生支援の人手を確保するために学生が支援する側に回って補てんするために始まっているので、無知な学生側にも原因があるのかもしれないが・・・

 

それでも、4年で卒業していく学生がどうして責任を取りきれるというのだろう。

大学は、学生の力量のなさを嘆くよりも、現実と向き合っていくことが必要だと思う。

そうしなければ、学生支援の持続可能性は上がらないし、大学のためを思って純粋に頑張ろうとする学生をつぶして、嫌な大学のイメージを植え付けてしまう。

結局、学生は学生支援を通して大学を知れば知るほど、文科省に見せつける報告書さえできればいいのだろうとあきらめていく。

自立した活動で学生の成長が・・・とか、学生支援を通して主体性や行動力が磨かれた、などと言えば言うほど学生のモチベーションは下がっていく。

学生が壁にぶち当たろうが、活動が衰退しようがすべて学生の責任であって、学生の自主的な活動を応援するのが役目だと言って、無駄な仕事を減らしたいんだろうと考える。

それでもいいなら、今のままで活動していけばいいと思う。私がどう思おうが、大学にとっては痛くもかゆくもないから、現状は変わらない。

金をつけているのに何が不満なんだと思っているだろうが、金で学生の活動を買おうとしているようで気分が悪い。

このまま私は1年半で卒業していく。後輩たちが今すでに困りはじめていて、八方塞がりの中あがいてくれていることを知りながら、何の力にもなれない私をどう思っているのだろう。

そんな風に先輩連中も申し訳なく思っているから、自分たちが活動をだめにしているとか思わず、自分たちにできる精一杯をやって、その結果活動が衰退していっても、あなたたちのせいじゃないよと言ってあげたい。

大学院に入ったので学部生の時の卒業論文を英文で書き直すことになった・・・

最近、旧帝大クラスなら卒論はもれなく英語である。

無理でもなんでも、「グローバル化」と旧帝大としてのプライドをかけて英語にしている。正直、日本人かぶれの読みづらい英文のオンパレードだろうと思う。

まあそういった所感は置いといて、私は終わったはずの卒論を英語で書きなおすという使命が下った。私の所属する大学のレベルでは、英文で卒論なんて芸当は無謀もしくは自殺行為と書きかえられる。自分で言って悲しくなってきた。

もちろん、医学部など、学部によっては可能だと思うが、平均的なこの大学の学生では、という話である。

この間の学会発表を終えてみて、先生が閃いたらしい。

できるかどうかは置いといて、努力さえすれば後はなんとかすると言って下さった。

いやしかし、先生が手を加えたら、原型がわからないくらいに文章が変わっているだろう。先生の熱意と努力の結晶と考えればいいのだろうが、寝る間もなく大学のために働く、決して若くはない彼の事を思うと申し訳なくてしょうがない。

一語でも先生の修整箇所を増やさないようにこれから頑張ってみようと思う。

M1の大学院生が初めての学会発表に行って、勇気と仲間をゲットした件

先週末、学会に参加してきた。

私は、学部生の時にやった研究を引っ提げて、学会発表の場を頂くことになっていた。

最近は、学会発表は学生が発表することが多いので、当たり前の光景ではあるのだが。

 

ギリギリまでロビーで発表の最終確認をしてから会場に入ろうと思っていると、

当日、演題のキャンセルが出て、順番が一つ早くなっていたらしい。

一つ前の順番で会場入りするはずが、入ったとたんに名前を呼ばれて登壇するタイミングだった。

 

若干(いや、かなり)動揺しつつも、発表を乗り切った。質疑応答のところでは、焦り過ぎて的確な回答になっていなかった気がしないでもないが、無事に乗り切った。

 

自分の発表が終わった後は、寝不足と緊張感からの解放で睡魔に襲われて他の研究発表の記憶が一切ないという残念な結果になりつつ、ポスターセッションの時間に。

ホテルに帰って寝たいと言う思いもあったが、帰っていく先輩を羨む気持ちを押し殺して参加した。

ぶらぶらと歩いていると、女性が「さっきの○○の発表の・・・!」と声をかけて下さった。懇親会に出ない予定だったので、しばらくお話をさせていただいた。私の研究を絶賛して下さって、改善点を優しく懇切丁寧に指摘しながら激励して下さった。正直、大学で理解してくれる人がいない状態だから、学会に行ったって誰もわかってくれないんじゃないかと思っていたので驚いた。

これからの研究の検討材料をゲットし、かつ理解してくれる方がいると言う喜びを知り、かつ大学では孤独だけど大丈夫!という勇気を得た。

本当にありがとう。感謝しています。

 

そして、余談だが、その先生の所属が来年がらりと変わるらしく、大学の編成が大きく変わる転換期だと教えてくださった。その方も、私の所属する大学の先生と同じく、研究する余裕はなく、訳のわからない書類づくりに日々追われているそうだ。大学の先生は研究職ではなく、教育もしくは事務職だなーとつくづく感じた。

 

大学祭実行委員会がいろいろやらかす大学祭なんて切実になくしたい

私たちの大学では、大学祭実行委員会という学生団体がある。彼らはそれはなかなかな伝説を残していて、大学中から注目の的である。

 

ライブに来たアイドルに2年続けて費用を振り込み忘れて裁判沙汰になった。そして、大学法人を相手に訴訟が来たので、大学の問題となって大学が費用を負担した。

学祭運営費うん百万のうちうん十万が使途不明金。そして、うん十万と同じ額で実行委員会内部で打ち上げを開催した。

他にも、学祭への出店費が異常に高い上に額が安定しない。借りたテントの管理が悪すぎて取引を断られる。など、学生に聞けばまずいい話は聞かないし、個人的にいやな思いをしている学生がそこら中にいる。

それでも誰も彼らを止められない。大学側も関わらない。裁判を起こした時に相手取られるのは大学法人に他ならないにも関わらず・・・・。

まず面倒がっている。金で解決するなら毎年うん百万を大学が払っとけばいいくらいに考えている。けれど、そろそろ手を打たないと大学の信用問題になる。もし裁判になったら、それでもなお生き残れるだけの競争力、ブランドが大学にあるだろうか。

だから、大学の業務として学祭運営に関わる必要がある。

一つ前の記事「ミス慶応コンテストがなくなったので「大学生」について考え直してみた」で、学生団体が対外的なイベントをすることの難しさを書いたが、この学祭実行委員会でも同じ現象が起きている。

ミス慶応コンテストがなくなったことで「大学生」を考え直してみた

2016年のミス慶応はいない。ファイナリスト6人が出たにも関わらずグランプリは決められなくなってしまった。

これまでも問題があったのは事実らしいが・・・・

駅前を全裸で走りまわったのもわりと最近の事だったように記憶している。

正直なところ、ミス慶応コンテストを学生のサークルだけでやっていたことに驚いた。

やはり、慶応大学ともなるとそれだけ優秀な学生が多かったのだろう。

 

学生だけでこれだけの大きな対外イベントをやり遂げるのは難しい。

学生は4年周期で入れ替わるため、サークルの伝統やノウハウを維持するのは難しい。現状を考えれば、大学が指導する体制を備えないと、学生の幅広い活動(大学にとってもおいしい)はできなくなる。しかも、今回のようにいざ問題を起こせば大学の名前に傷がつく。学生にとって大学は、人生の中でたった4年の出来事で、大学生という肩書上、社会的責任は軽い。しかし大学側は、たった4年間しかその学生の事を知らないのに、彼らに責任を持たなければならない。なんと不合理な関係性だろう。だが、それが教育なのだろう。

かつては「大学生は大人であり、自分の行動に責任を持てる」という前提で大学教育が成立していた。また、当時は不祥事に対してもそんなに厳しくなかったと思う。ここ数年、コンプライアンスの観点から、不祥事に対して世間の目が厳しくなった。

学生の質と言う観点では、天下のT大生と言えども、変わった学生はいる。受験形式はセンター試験を中心に、学生の知性や創造性、人格的な成熟よりも機械的な処理能力と回答の平凡さを問うているので、変わった学生も有名大学に入学できてしまう。

だから、入学してきた学生を野放しにしておくと非常に危険だ。自由を与えると見境がなくなる。無責任と自由の区別がつかず、自分のやりたい事ばかり主張して、話にならない者も増えている。

 

今の評価方法のままでそれに見合った大学生像を受け入れるか、大学生のあるべき姿に評価方法を合わせていくかをはっきりさせないと、こうした問題はこれからも続くだろう。

学生FDのみんなと最近の学生について語ってみたら、ちょっと切なかった件

 昨日の夜は、学生FD6人でご飯に行きました。

私たちの大学は、FD活動よりもピア・サポートが活発ですので、少し肩身は狭いですが、本音で語り合えるいい仲間に恵まれていると思う。

M1 1人、4年生 1人、3年生 2人、2年生 2人

 

話は、大学に対する不満や大学の闇について語るつもりだったのに、

全然違うテーマになり、

カント、デカルトニーチェを勉強していて、「存在」とは何かを考えている2年生

アインシュタインにはまっている工学部3年生

無宗教と名乗る日本人は世界でやっていけないと心配する4年生

対ロシア外交に熱くなっている大学院生

という愉快な仲間たちで、

世界情勢、日本の若者の課題など議論した。

 

まだ学生運動がさかんだった頃なんかは、

哲学や政治、歴史について語り、自分の考えを明確に持つことは「かっこいい」とされていた。今では、厨二病という言葉で片付けられてしまうのだが。

もっと議論したい!!と思っていたので、他の学生には通じない話を堂々とできたのはとても楽しかった。と、同時にこのメンバーでしかできない話なんだよなーと再確認した。

 

大学って正直、先生と関われないよねっていうか相手にしてもらえないよねって思う

国立、公立、私立のどの大学に通っているかで変わってくるが、

国立だと特に先生と関われないなーと結構な数の学生は寂しく思っている。

 

私の学部では3年生の前期からゼミ配属されるので、時間がある方だが、

4年生で配属された場合、ゼミはほんの一瞬の通過点でしかない。

 

私のゼミは、先生がとても親切だし、教育を重視している方なので、

学びたい熱意さえあれば、学年に関係なくゼミに参加させている。

1年前からゼミに参加していて、現在2年生の後輩は、ゼミに入ってから熱心に勉強している。ただ、事実上3年生から配属なので、今は非公認のゼミ生となっている。

 

彼がゼミに入って3カ月がたったころ、学生証で実験室に入れるようにしてほしいと学務に相談した。

ダメ元で聞いてみただけだったのだが、

学務から学科のコースの教授会に挙がって、コース内で物議をかもした。

実験をしていたのではなくて、ゼミ生が自主的に集まって勉強する場だったので、

入って勉強していただけだったのに。

 

結果はやはり公平性の観点からダメだと言う話になり、

最終的には「なんでそんな自分勝手な意見を通そうとするんだ」と言わんばかりに先生が注意を受けてしまった。

学びたい学生の知的好奇心に答えられない大学のカリキュラムや、

学生と関わる時間を無駄と考えて自分の世界で研究に没頭している教員が学生のニーズに応えられていないだけだろうに。

学びたければ勝手に学ぶと当たり前に言われているが、

今のご時世は受験のための勉強、勉強のための学校生活で、

やるべき事をいつも指示されてきたのに、大学に入ったとたん「自分で考えろ」と言われてもわからない。

 

他には、情報が多すぎるため、どう取捨選択するのがいいか判断できなくなっている。

授業は大人数化していって、先生との距離は離れて行く。

 

それでも、担任制を導入するなど、学生生活の指導をやってくれる大学が出てきていて、

本当に羨ましい限りである。

手取り足とり教えてしまうのではなくて、学生と向き合おうとしてくれる心が学生を育ててくれると感じている。